昭和45年5月28日 朝の御理解
御神訓一、わが身はわが身ならず みな神と皇上との身と思い知れよ。
御神訓一、食物はみな人の命の為に天地の神のつくり与えたもうものぞ。
わが身はわが身ならず みな神と皇上との身と思い知れよ。食物はみな人の命の為に天地の神のつくり与えたもうものぞ。と、こう教えて頂きますと、そんなものかなと思いましても、実感としてやはり自分の命は自分の命、と言う実感の方が強いですね。
いかに、自分のこの体が神様のものだと、又神と皇上との、皇上と書いてあるですね。天皇陛下の思いだと言うわけですね。ですから一旦緩急ある時には、それこそ(言うならこうものかるきに?)おくと言ったようなね、そういう思想です。
そういう風に例えば言われてもね、私はそんな風には思えない。やはり、この体は自分のものであり、やはり命は自分のものだと、と言う風な思い方が一番自然なように思うんですけれども、(本当こうあるですね?)ところが段々信心をさせて頂いて行く中にですね、そのんところが少しづつ分って来るのではないだろうかと、成る程自分の命のごと思うておった、自分の体のように思うておるけれども、自分の体じゃないんだ、命じゃないんだなと言うようなことがね、まぁ色んな具体的な問題に、を考え合わせて見てです、そう思うですね。
自分の体の(あらわ?)自分の良いように出来そうです。ね、ところが自分の思うように出来ない所にと、こりゃやっぱり自分の体じゃないなと思うわけですよ。ね、自分の体じゃない。
昨日、ある方、夕べでしたか、ある方が御取次ぎをして、この頃から(ちゅうぶにいたから?)半身不随になられ、それでまぁ近所の方がお願いをされまして、まぁそうとう(ねに?)かかっておかげを頂かれた。
半分は自由だけれども、半分は自由にならないと言うわけなんですね。自分の言うなら、その半分だって、自分の良いようにしたらよか、そんなもんだけれど、どっこい半分は言わば萎えてしまってる。半分だけは以上に動く。それでもまだ思い知らん、まだ自分の体とこう思うておられる。だから命は自分でやっぱり(大事にいきゃならん)とこう。ならおかげを頂いて、ここにもお礼にも一回出て見えられたんです。で夕べ聞かせて頂きましたら、今度は又倒れなさった、今度はもう全身不随だとこう、今度はいよいよ難しかろうという話を昨日聞かせて頂いたんですけれどね。
これ、自分の体じゃない証拠です。半分は神様の(おおまかませ?)言うなら半分は自分の(思うて?)半身不随な時にはそげな、それで、その後信心を進めたいと思うけれど、もう健康になられた、というような気持ち、それでもやはり週にね4種類、4通りもの薬を飲んるとこう言うて。だから、まぁ医者ももう大丈夫し言うてくれるし、もう自分も大丈夫。そういわれたのは、2、3日前であった。
買い物に行かれてから、はー健康になられましたねち、はーおかげで、もう医者も大丈夫ち言うてくれるし、薬も4通り何時も飲みよるけんで、もう大丈夫という風に言われよったところが、2、3日後に又倒れたそうです。そして、今度は全身不随になられて今度はもういよいよ、この頃つい何日まではもう、もう大丈夫だの、って言われよったお医者さんも、今度はもう難しかち。
ね、当てにならないっと言うか、儚いというかもう、本当にそういうところにですね立ち立ってみて、成る程自分の体ではないなぁとこう思うんですね。そこでならそんなら自分の物とか、自分のものでないとかと、言うことはまぁ別としてですね、これは、亡くなられました教団のまぁ大戯け者と、何時の時代にも思い、言われておられた。
高橋正雄、偉い先生がおられましたが、そこ方が、確かなこと、言うことを、確かな事、一つ、自分が助かっていると思えぬ事。助かっていないと思えぬ事。自分が助かりたい者である事。これも一つ、自分が助かりたい者であること。一つ、自分一つで助かる事の出来る者でない事。難しいことですね、難しい表現ですね。まぁ非常にもう教学の大家でおられますし、信心も手厚に出来られた方だけれども、哲学者ですね。非常にそのよみが深い。信心に深いところを何時も考え続けておられるといったような先生でしたね、もう何時も何時も、えーって何か言ってもう見つめては、そこところを、自分という者を見極めるというか、そこからね、自分というものをいよいよ見極めた所から、こう出た言葉でございましょうね。
一つ、確かなことと言うのはね、もう間違いがない事と言うことなんです。間違いがない事はね、一つ自分が助かったいると思えん事。あなたは助かっていますかと。はい、私は助かっていますと言える人はないという事なんです。ね、健康であります、お金があります、家は円満でいきよります。と言う人達は、助かっておるようであるけれども、実を言うたら助かってはいないんだとこう言うのです。
自分が助かっていると思えぬ事。ね、そのようにあらゆる事に、あらゆる全ての事に恵まれて、健康であり、お金があり、家は円満でありち、例えて言うとね。ところがね、心を見た時ですたい、心を思うた時ですたい、成る程助かっていない自分をそこに発見する。ん、あの人こそ助かっちゃろうと思うけれども、助かって、実際は一人一人助かってはいないんだと。自分が助かっているとは思えんと言う事。
けれどもね、一つ、自分が助かりたい者である事とこう。それでもね、やはり自分が助かりたいと思う者、これも確かな事なんです。あなたが助かっていないと言う事も確かなら、その助かってはいない、その命がです、助かりたいと何時もそれを願い続けておるということ。大変難しいですよね。けどもそれは、確かにやっぱ確かな事だと思いますよね。
どうなかして助かりたい。助かりたい、と私共の命がそれを叫び続けておる。そしてね、そこに結論として出ておるものがね、まぁそうじゃないかと思うんです私は、高橋先生の信心をよく勉強しとりませんから、よく分かりませんけれど、ではならろうかと思うんです。自分一人で助かることの出来ない者で、出来る者ではないと言うこと。ね。
自分が助かっていないと言う事。これまもう誰にだって、まぁ当てはまる事です。いんや自分な金がありますから、物がありますから、健康がありますからと、助かっておる。んならあたなの心はと。ね、助かってない証拠に、不平があり不満があり、ね、やっぱりその時その時にそれだけのものが整うておるのに、足ろうておるのに、不足を思いなさらんでよかろうごとあるけれども、やはり思うたり、その悩みを感ずるところを見ると、助かってないと言うことが分る。
ね、それでもね、その命がね何時も助かりたいと願い続けておるという事。自分が助かりたいのであると。そこでです、助かりたい助かりたいと言うて助かる事の道を本気で見極めようとさせて頂くところからです、こりゃ結論として出たものはですね、自分一人でいかにばたばたした所で助かる事は出来ない、と言う事。自分一人で助かる事の出来る者ではない、と言う事。これも確かなことだと言うておられます。
ね、まぁ私共の思い方、なかなかよみが浅いからね、もっともっと深いところにあるでしょうね、けども例えて言うとです、親がいかに心の中に助かっておるというてもです、心まで助かっておるというてもです、子供がもし助かっていなかったらね、その親は助かっていないですよね。子供が助かっておっても、親が助かっていなかったらね、助かっていないでしょうが。と同じ事です。
だから成る程、自分は一人で助かることの出来るのではない、と言う事。まぁそれこそですたい、ね、「わが身はわが身ならず」と言う事。いうなら、「神と皇上との身と思い知れよ」私はここんところを、いわゆる皇上と言う事に、ただ今申しますように、君の御為とかね、天皇陛下の御為と、死ぬるでも天皇陛下万歳と言うて死ぬる、と言ったようなまぁ時代のそういう思想の時代の、やはり使われた言葉ですから、これは皇上と言うことを、皇上と書いてあります。神は神様の神ですよね。その神様と天皇陛下の御物だという風に表現してありますけれども、ここは私は、例えばそれがいけないと言う事じゃありません、ね、例えば忠君愛国と言ったような思想が、本当だと言われたような時代は、それはやはり天皇陛下の御物だと言ったような頂き方が本当だったと思います。
けども今はそういうような、言わば事言うても通らない時代。そこで私は「神と皇上との身と思い知れよ」と言う所を、生神金光大神と又言うならば師匠と。例えば「君こそ我が命」何ていう、何かいう事がありましょうが。ね、「君こそ我が命」と我が命こそ君の又ものというような風に頂いても良いでしょう。
ね、言うなら大切なものと。何が大切というても命ほど大切なものはありません。その命をかけると言うのですから、一番大切な命をかける。私は信心はそうだと思うですね。自分の命を信心にかける。だから信心は大切なものと言う程度の人から、信心はもう命だと言う人、いや自分の命以上だと思うておる人もありますね。信心には自分の命以上だと。そこで私はここんところは、私共は生神金光大神にかけてあるんだ、教祖生神金光大神にかけてある命なんだ。
だからいわゆる天地金乃神様の御命とともにです、ね、教祖生神金光大神の御命と、かけておるという、命とまでかけておるという風にこう頂いたらどうでしょうかね。「神と皇上との身と思い知れよ」それを仏教的な言葉で言うと、「帰依し奉る」と言うことになるんじゃないでしょうか、ね。帰依する。金光大神に帰依すると言う事なんです。
この高橋正雄先生の確かな事と言うことがね、自分が助かっていないと言うこと、ね、自分が助かっているとは思えん事。自分が助かりたい者であること。確かな事なんですね、確か。そこで自分が助かりたいと、思い願わせて頂いたらです、ね、そこに答えが、高橋正雄先生の心の中に結論が出てきた。自分では、自分は助かっていない。そんなら、からと言うてそのままで良いとは思えない。そこで自分がどうかして助かりたいものである事を念願された。そして、自分一人で助かりと言うことは出来るものではないと言うことが分った。
それが高橋正雄先生の信心がね、それはまぁどういうようなことか。と言うと今の親子の関係を思っても申しましたがです。氏子あっての神、神あっての氏子、とこう。( ? )ですね。ここでもですね、神様がね、神様とご自分に、ご自身で助かる事は出来ないと言うような、(神様の方が?)。いかにも俺はもう天地金乃神だと言われたところでですね、例えば私共が、そんな神様がござるだろうかと言うたらね、もうそこには天地金乃神の助かりようはない訳なんです。
だから、氏子あっての神だとこう言うておられます。氏子が神を神と立て、仰いでくれるところに神があるのであり、神の働きがそこにあるので、出来る事になるのだ。そこに初めて、神様が助かって下さることになるのだ。
そこでなら私共も、信者又は氏子としてはですね、段々信心しておかげを頂いて、分らせてもらう事はです、やはり神様あっての私共でございますと言うことになるんです。ね、神様あっての私共、いや氏子あっての神だとこう、神様は言うて下さる。成る程そこら辺のような所からは考えましてもですね、自分一人で助かる事が出来ないということが分ります。いかに、いかに威張ったところで俺はもう誰のお世話にならんでも良いと。
例えば、一本の野菜を作るに致しましてもです、ね、どんなに自分のこれは畑だ、自分の田んぼだと言うてです、そこに沢山な肥料と、耕しをしてです、ね、肥えた土地をそこに自分が持っておると致しましてもです、そして自分の種を蒔いてあったと致しましてもです、そんなら神様がですね、これに対する所のお恵みである、例えば日の光とか、水の恵みとかと、ね、露の恵みとか、日の光とかと言うようなものをここにさんさんとして送って下さるから、これは良い土地と、その神様の働きとがあいまって良い野菜が出来るのであってですね。
そんならお前、コンクリ―の上に種を蒔いて見れと言ったって、種も、そのならいかに、そこにいかに水をやった所で、日の光を送った所で、(芽をきることも?)、それが実ることもないように、そこに合いまたなければですね、私は立派な野菜がそれが出来ない。それを私共は神様の自分を空しゅうして行く、自分というものを空しゅうして、神様のおかげで出来ましたとこう言うのである。ね、神様も又、いや氏子あって出来たんだ。氏子が種を蒔いた、肥料も(どこした?)ね、そのお育ての御用をさせて頂いたからこんな立派な野菜が出来たんだという。
成る程自分一人で助かる事が出来ない事が分った。結論として。ね、「わが身はわが身ならずみな神と皇上との身と思い知れよ」少し、ね、私共はやっぱり自分の体は自分の体だと。今の時代に何が自分の体が天皇陛下の御物なものか、と言う方が自然な考え方、自然にそう、私共はそうしか思えない、事実。けれども信心をして段々分ってまいります、言わば金光大神に帰依し奉るという信心が出来て来ると、又は天地の親神様のお言葉をですね、氏子あっての神、とこう仰る、そうです私共があってから神様ですよとは言われん。いいえ神様あって私共ですと言わなければおれない事になって来る。
そこからですね、自分が助かり、自分が助かりたい者であるというです、きっかけが出来てくるのが、私は金光様の信心の言わば生き方だとこう思う。ね、そこでね、次に食物はみな人の命のために、天地の神がつくり与えたもうものぞ、と。全然意味が違いますよね、この我が身がわが身ならずと食物訓、食物訓、食物(けの?)二つこう並んでおりますから、今日はこの二つのところから、まぁ頂いておる訳ですけれども、食物はみな人の命のために天地の神のつくり与えたもうものぞ。
その命のために与えられるための食物という物を頂くことによって、命が命としての働きをする事が出来る。ね、食物をね、いや神様のお世話にはならん、と言うて例えば氏子のために作って下さっておるものがここにあっても、俺はその人の厄介にはならん。今時は、何か丸薬か何かを一つか二つ食べるともう腹いっぱいになるような、進んだ食べ物があるそうですね。だから俺はもうそげんとば食べちから、神様が作りなさった野菜やら米やら食べんと。言うたところでです、その丸薬そのものが、それがやはり神様のおかげを頂かなければ出来るもんではないのですから。
俺は神様のおかげ頂かんでも、ね、医者の薬でようならせてもらう。あーそうですかと、ならその薬が、どういう風にして出来たのだろう。いかにも人間が作ったようであって、実際は神様のおかげを頂かなければ出来るものではない、薬一服、注射一本全て天地の親神様の、お恵みに恩恵に浴しなければ出来るものではないのですから、その神様のね、つくり与えて下さるもの、食物はみな人の命のために天地の神が作り与えたもう、そこから命、命としての働きというものが出来て来るようになる。
ですから、その働きがですいかにね、例えばその命がどういう方向に向かわなければいけないかと言う事をここでは感じさせられますね。この、まぁね、さっきの所から言うと、この命は神様の命。いやそれでもやはり自分の命だと思える、まぁそれはどうでも良い、その過程ですから。けれども、その命に、を頂く事のために食物がある。だから、その与えられるところの食物を持って、私共は命は命としての働きを現すのが私共の御用だと思う。
それぞれの持場立場においての働きというものをする。ね、ここんところも大体(一応?)である。お百姓であるならば、商売人であるならば、自分の商売に一生懸命打ち込む。働く事が出来る。お百姓さんであるならば、一生懸命お野菜つくりを、ね、作物を、のつくりを一生懸命その命によって(ならす?)ね、神様から与えられた食物を持ってです私共そこに、それを一つのエネルギーとして、様々な場合において働きをするのであります。
そこまでは同じ。そこでです、ここで私共が分らせて頂かなければならんことは、神様がみな人の命のために与えて下さるものであるならばです、ね、その命によって現れれてくる所の働きというか、御用はです、ね、そんなら神様に、神様の御命のために私共が働くと言うことにならなきゃならんという事になります。
食物がみな人の命のために与えられるものであるならば、その命を頂いて働かせて頂くその働きの方向と言うか、姿勢と言うものが、神様に喜んで頂くために働かなければならんていう事になります。それが本当だと言う事になります。そこんところからです、いわゆるあいよかけよと。神様は私共の命のために食物を下さるから、なら食物を頂いて命が生き生きとしてくる。その生き生きとした命がです、私共が又、ね、生活のために食べて行かなければならんけん働きよると言ったようなことではなくてです、同じそのことであっても、それが神様がお喜び頂けれるような姿勢を持っての働き。
ね、いうならば、世のお役に立ちたい、世のお役に、お役に立たせて下さい、という祈りを持った働きにならなければ本当なことではないと言うことが、皆さん今日はおぼろげながらでも分って頂いたと思うんですが、どうでしょう。非常に言わば理屈をこう、まぁお話を申しましたけれどもね、これを理屈と思わずにです、それを素直に一つ受けさせて頂いて、ね、結論としてお役に立ちたい、お役に立たせて下さいということがです、こういう理屈の上にです立ってまぁ、こういう論理の上に立って成る程そういうような思い方が本当だと言う事を今日は分かって頂きたいと思うんです。
ね、そこで例えばずるい考えとか、汚い考えと言うものは、そこから取っ、除いていかなければならないことが分ります。ね、神様に喜んで頂けれる働きをさせて頂かなければ言わば相済まんというようなことも、今日の所を頂いておると分かる気が致します。分るじゃなくて、分る気がする。私自身がその程度。
だから私共の、働かせてもらうその姿勢と言うものがです、世のお役に立ちたい、世のお役に立たせて下さいと、それを自分のかけ守りのように思い続け、祈り続けさせて頂くという生き方。なら、本当だ、生き方だということが言わば分りました。それにはまず、自分は例えば、ね、浅い考え方で、自分は助かっておる、自分はお金がある、自分は健康であるといような程度でです、助かっておると思わずに、いよいよ自分が助かっていない自分というものを見極めると同時に、そこから切実に助かりたいと言う願いを持たなければならないこと。
自分が助かりたいのである事。と高橋先生は言っておられます。そこで分らせられたことは、とても助かりたいのだけれども、自分一人ではどうにも出来ない事。自分一人が助かる事の出来ないものである事が、又確かなものとして分って来た。そこからね、例えば今日私が申しました事はです、神様と私共が一つになってです、助かる。神も助かり氏子も立ち行くというおかげ。
これはちょっと余談になりますけれども、昨夜の御理解にね、神も助かり氏子も立ち行くという言葉がありますがね、その立ち行くという事に付いてから簡単に、私お知らせ頂いたことはあの、立ち行くという事はどんな事だろうと、例えば色んな問題が起こりますとねあちらも立ち行きこちらも立つようにという、これは金光教の信心の願いなんです。例えばそこに、商売(がたき?)があるとするか、もうどうぞ私共が繁盛させて頂くためには相手のこの、仇のごたる、その(どうぎおせは?)潰れるがいいと言ったようなものではなくてです、ね私もおかげを受けなければなりませんけれどもです、相手もどうぞ助かって行きます、と言うのが立ち行くという事なんですね。
あちらも立ち行くこちらも立ち行くという、又そういう立ち行きのおかげが受けられるのが、金光様の御信心なんだと。立ち行くという事はどういうことだろうと。皆が立ち行かなきゃらんとよく、こう使いますけれども、立ち行くとはどういうことだろうかと思わせて頂いておったら、★御心眼にね、あの、荷い物を致しますね。
例えば親と子でこう、荷いますと子供が小さいから、小さい方に、真ん中、ほりゃもう平等だなんて言ってから半分半分したらいよいよ子供の方に重みがかかってしまいますよね。それを親が自分の、大きい方のものが、自分の方へぐっと引いといて、こうやって荷いますとちょうどいい具合に歩きよくなって来る。立ち行くとはそういうことだと。
又は今度は、こう(荷やいっかぞく、いっこうね)今な、あんまり(みうきません?)けれども、(めご?)を両方にこう(いなう、めごう?)なら願う。ね、こう荷う。それが例えば、どちらも五十斤なら良いけれども、片一方が四十斤で片一方が六十斤と言ったような場合がありましょうが。そう言う時には真ん中を荷わずに、やはり、ね、重い方をこう、ね、中心をそこそらさなければ、こう(になやいっか?)と言うことにはなって来ないでしょう。
まぁそういうような事だと、まぁこれは説明をすると又時間がいりますけれども、立ち行くという事はそのようなことだと。言ったようなことを頂きましたがね、神も助かり氏子も立ち行く、だから氏子が立ち行く為にはね、神様はそういう願いを私共、立ち行ってくれよという願いの中にはね、そのあいよかけよとね、お互いにそこはゆずり合い、同情し合い、親切のし合い。そういうことによってです、立ち行ってくれよと言う願いがあるということを、分らせて、感じさせてもらうですね。
まぁこれは現代の、教団の、教団というよりは今の、現在のお道の信心では非常にもう説き難い私は御理解だと思いますね。「わが身はわが身ならず、みな神と皇上との身と思い知れよ」なんて、ね、もうこういうみ教えは、もう教典から除いても良いと思われるくらいな感じのするのですけれども、今日の御理解を頂いていますとですね、やっぱり素晴らしいみ教えだなと言う事を感じますですね。どうぞ。
梶原 佳行